| メコンデルタ イン ベトナム - http://cantho.cool.ne.jp |
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第四章
見惑
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留学を始めてから数週間後の週末、私はメコンデルタの北西部にあるチャウドックという街へ向うローカルバスに揺られていた。カントー省の北側に隣接するアンヤン省にさしかかると、ハウ河に沿った国道が埃っぽい堤防の上を走り、道端には細いカヤプテの柱で支えられた高床式の家屋が姿を現した。道路や建物の構造が洪水の常襲地帯にいることを告げていた。メコンデルタの洪水を研究するために留学を志してから最初に自分の目で確かめたかったもの、それが、アンヤン省の洪水だった。すでにハウ河の水位はピークを過ぎていたが、この期を逃せば翌年の雨季まで洪水を目にする機会を失う。そこで、週明けに開始される講義の予習資料を抱えると、びっしりと詰まった予定の合間を縫って二泊三日のチャウドック小旅行を敢行した。 百円ほどの乗車券を握りしめてローカルバスに飛び乗る旅は、旅行者としてメコンデルタを歩きまわった頃の新鮮な興奮と冒険心を呼び覚ました。未だ見ぬメコンデルタの新たな素顔を車窓の風景に探しながら、カンボジア国境に近いチャウドックの街に思いを馳せた。カントーを出発してから四時間近く経っただろうか。道路の凹凸から伝わる心地よい振動で寝入っていたところを、突然、誰かに叩き起こされた。 「着いたぞ。降りろ、降りろ」 バスの乗務員が肩を押すようにして、苛立ち気味に降車を急かしていた。 「えっ、ここはどこなの」 「チャウドックだよ。早く降りて」 状況がまったく飲み込めないまま、交差点の真ん中でゆっくりと左折するバスから荷物を抱えて飛び降りた私は、瞬く間にバイクタクシーやセロイ(オート三輪)の群れに取り囲まれた。 「兄ちゃん、どこまで行くの。カンボジア国境かい?」 「チャウドックの町まで、どのくらいかかるの」 「バイクで十分だよ。二万ドン(約百五十円)ね」 わずか十分の道のりにバイクタクシーの運転手が提示した言い値は、四時間乗り続けたバスの料金よりも高かった。ベトナムのローカルバスは町の中心まで客を運ばないので、その終点がとても曖昧だった。街中から数キロ離れたバスターミナルへ到着するのはよいほうで、適当な交差点や市場の前で半ば強制的に放り出されることも珍しくない。そんなとき、町の中心までに要する時間とバイクタクシー代の相場観を持ち合わせていないよそ者は、到着早々に心細い思いをすることになる。 ![]() チャウドックに着いた翌日、南部ベトナムでは名の知れたサム山という信仰の山を訪ねた。山麓には参詣客が宿泊する民宿と土産物店が立ち並び、人々の賑わいが金比羅山のような観光地の雰囲気を醸しだしていた。歩くことを嫌うベトナムの人々が裏手からバイクタクシーで山頂を目指すのを尻目に、私は自分の足で正面のルートから登ってみることにした。急な傾斜の登山道は林学科を卒業していた私にとっても険しい道のりだった。額から流れ落ちる汗を拭いながら前がかりで黙々と登り続けるうちに、木々の合間から衝撃的な風景が姿を現した。 「おおー!」 私は思わず一人で叫んでいた。主要な幹線道路と街中の居住区を除いて、見渡す限りの土地が水浸しになっていた。まるで海に浮かぶ島々と、それを繋ぐ海上道路のような景観が、遠くカンボジアの領内に向けて延々と広がっていた。 〈いったいどこから、どうやって、これだけの水がやってくるのだろう〉 メコンデルタの洪水は、私の想像していた規模を遥かに凌駕していた。 〈とんでもない相手と対峙することになった〉 と、半ば後悔の念を抱きたくなるほど、圧倒的な洪水が眼下のメコンデルタを呑み込んでいた。サム山から見渡したチャウドックの洪水は、人々が共存していかざるをえない必要悪であり、人為で制御することなど考えも及ばない強烈な力を内在していた。三百六十度のパノラマを網膜にしっかりと焼き付けてから、打ちのめされたボクサーのようにフラフラとした足取りで山を下りた。 洪水と国境と貧困。それぞれが繋がっているようで単純には表現できそうにない国境の町を覗き見した三日間。カントーへ戻るローカルバスの車中で心地よいメコンデルタの風を顔に受けながら、チャウッドクで拾い集めてきた自分への課題に思いをめぐらせていた。 |
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本格的な大学院の専門講義はデンマーク人の女性教授による『生態系』で幕を開けた。アニカ女史は大学院を共同運営するデンマークのオーフス大学から派遣された教授で、扶養家族の旦那と二人の娘を随伴してカントーに暮らしていた。ベトナムの人にとってアニカとアキラは混同しやすい発音らしく、よく「アニカ」や「アリカ」と名前を呼び間違えられた。 アニカ教授のような外国人教員は英語で講義をするのだが、ベトナム人の学生にはそれを理解する英語の素養がなかった。そこで、外国人教員による講義では、必ずカウンターパートのベトナム人教員が通訳を務めることになっていた。同じ内容を違う言語でくり返し、ときにベトナム語の補足説明も加えられるため、外国人教員の講義は単一言語での講義に比べて二倍以上の手間と時間を要した。このバイリンガルな講義は著しく効率性に欠けていたが、留学生の私にとっては理想的な方式でもあった。まずは英語の情報に基づいて講義の内容を理解し、それに続く通訳を聞きながらベトナム語の耳を訓練することができたからだ。 しかし実際には、ベトナム語の通訳を担当する先生が、すんなりとは講義を進めさせてくれなかった。 「そういうわけで、生態系は非常に重要なのです」 というアニカ教授の明確な発言も、チーム先生のフィルターを通してベトナム語に変換されると、 「生態系もいいけど、いまのベトナムには、やっぱり経済発展が大事だな」 と、ただの私見に取って代わられた。得意満面な語り口で、わざわざ自分のコメントを英語でアニカ教授に説明したところ、 「チーム先生、何を言っているのですか。生態系と経済活動はバランスが重要なのです」 と、怒られた。しかし、夫婦漫才を観ているような微笑ましい講義は、しだいに饒舌さを増したチーム先生に主導権を握られていった。 「チーム先生のベトナム語は歌みたい」 と、級友が言うとおり、声を裏返しながら淀みない口調でおもしろおかしい持論を展開する先生に、アニカ教授もなすすべがなかった。 「環境と生態の関係ですが、たとえば、豚は暑すぎると子供を生まなくなります」 「おかしいな。人間は暑くても子供をたくさん作るのにね」 「異なる種であっても、場所や消費する資源を違えれば共存することができます」 「まあ、言うなればベトナム人と、カンボジア人と、ラオス人が、インドシナ半島で住み分けているようなものだね」 なぜ教室が笑いの渦になるのか合点のいかないアニカ教授を取り残し、チーム先生にハイジャックされた教室からは笑い声の絶えることがなかった。 突然、バラバラバラというパチンコ球を床に落としたような大きな音がして、それが驟雨の来襲だと気がつくまでに一瞬の間があった。教室の屋根はトタンでできているらしく、雨粒の衝撃で必要以上に大袈裟な音が響いた。それから雷鳴が轟くと屋根を撃つ雨音は一段と激しさを増していった。
「したがって、このように私が、さー、けー、んー、でー、もー」アニカ教授の絶叫も空しく、もはや隣人の声ですら聞き取れなくなっていた。教授が両腕を交差させて休憩を告げると、私は真っ先に教室の外へ飛び出してメコンデルタのスコールを食い入るように眺めた。雨どいから滝のように溢れ出した大雨のカーテン越しに、一台だけポツンと置かれた私の自転車が寂しそうに濡れていた。 「大雨、大雨、雷、雷」 台風が接近したときのようなつむじ風が吹き荒れるなか、私だけが子供のようにはしゃいでいた。 忘れもしない十歳の誕生日のこと。当時住んでいた家の裏手に落雷があり、雑木林のニセアカシアが真っ二つに引き裂かれて壮絶な最期を遂げた。梅雨末期の豪雨災害が頻発する七月の中旬に生まれた私は、誕生日になれば必ずといっていいほど雷の祝福を受けた。そんな少年時代の影響か、大人になってからも夕立があると気になって仕事が手につかず、窓の外の高層ビルに向かって走る稲光を飽きもせずに眺めていた。 〈パリパリパリ〉 大気が裂けていくような乾いた音と同時にカメラのフラッシュを目の前でたかれたような閃光が走り、続いてみぞおちを強く殴られたような重低音に体全体が震えた。雨の降りはじめに土壌が発する、きな臭い匂いが辺りに漂っていた。 「今日はちょっと早いのですが、これで講義を終わりにします」 教室のあちこちで雨漏りが始まり、すでに講義の続行は不可能だった。級友の何人かは躊躇することなく雨合羽を着込んで、落雷が続く大雨の中をバイクで帰宅していった。も自転車通学の私には、そんな勇気があるはずもなく、教室に残って講義の復習をしていた。 〈ズドーン!〉 この日一番の雷鳴が至近距離で聞こえ、教室の電気が一斉に消えた。メコンデルタの空が機嫌を損ねたような凶暴で気まぐれな落雷は、人間には手の届かない世界から遣わされた神々の仕業にも思えた。ベトナムの人々が自らの神を「天の翁」と呼ぶことに共感した。 そのうちに雷鳴の地鳴りが遠ざかり、代わって窓の外をオレンジ色の夕陽が照らした。 「アキラ、○×△□」 「なに?」 ニョンの早口なメコンデルタ方言を理解することはできなかったが、彼の手に握られたラケットで察しはついた。バイク置き場には、ペンキで引かれたコートにポールで支えられたネットが準備されていた。夕立が去った後の清々しい空気の中で、バドミントンのダブルスに興じた。 「アキラ!」 「おいおい」 「うまい!」 難しい言葉の要らないスポーツで体を動かすと、留学生活のストレスが嘘のように解消されていった。打ちあげたバドミントンの羽が舞うメコンデルタの夕空には、絵に描いたように鮮やかな半円形の虹がかかっていた。 |
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『生態系』の講義が終了する日に、アニカ教授から妙な課題が与えられた。 〈カントーのパン屋に二匹のネズミがいて、増加率一・二で子孫を増やす。パン屋の環境でネズミは五十匹まで生存できるが、そこへ外部条件として猫がやってくる〉 生物個体数の成長を関数で予測するという例題が解説され、それに続いて鹿の個体群を計算する課題に生徒が取り組んだ。 「アキラ、『deer』っていうのは、どんな動物か知っているか」 場の空気を読めない質問をするチンに、 〈鹿に決まっているだろう〉 と、答えたくても肝心のベトナム語が出てこない。しかたなく両の手を鹿の角に見立てて体で表現したところ、さらなる混乱を生んでしまった。事態を収拾するために鹿の絵を描いたのだが、隣に座っていたタンが余計なアゴヒゲを付け加えたせいで、私の力作はヤギになってしまった。 「ヤギは『goat』だろう」 「いやいや『助平』だろう」 ベトナムではヤギが助平の隠語なので失笑を買った。 「みなさん、今日は差し棒を用意していますからね。うるさい学生がいたら叩きますよ」 アニカ教授が「鹿問題」で紛糾する教室に釘を刺した。すると、それを遮って、 「この棒は僕とアニカ先生がフェンシングをするためにある。僕の通訳が長すぎるから先生がイライラしている」 と、チーム先生が確信犯的に茶々を入れた。 こうして二週間の講義がすべて終了し、アニカ教授とチーム先生には学生代表から花束とプレゼントが手渡された。事前に級長のホンが号令をかけて、学生一人あたり五万ドン(三百五十円程度)がお礼のための費用として徴収されていた。 「親愛なる先生。われわれは、先生がたのご尽力による類稀なる勉学の機会を頂き、喜びに打ち震えております」 学生代表のチンが、大袈裟なジェスチャーを交えて共産党の年次総会が閉幕するかのような仰々しい挨拶を読みあげた。
大学院では、一つの講義が終わるたびに、まるで義務教育のように筆記試験が課せられた。「今日の午後三時から試験勉強会をしましょうね」 試験に対して執拗なまでのこだわりをみせる級友の姿が、日本の小学校で経験した懐かしい光景に重なった。大学院生にもなって試験のためのお勉強会をする趣旨が理解できず、私は参加を見合わせることにした。しかし、そんな自分も初めての試験を控えた数日前からは、緊張でなんとなく寝付きが悪かった。 試験の当日、八時五分前で教室に入ると、すでに着席していた級友が口々に非難めいた声をあげた。 「七時から試験だと言ったのにどうして来なかったの。試験はもう終わっちゃったよ」 瞬時には事態が飲み込めなかったが、一瞬の間をおいて自分の顔がこわばるのを感じた。 〈ベトナム語の理解が不十分なことが原因で、なにか大事な用件を見落としてないだろうか〉 留学してからというもの、いつも怯えながら不安な気持ちを抱えていた。そんな留学生の胸中を慮ることもなく、彼らは口裏を合わせた悪い冗談で私をかついだだけだった。憤りをこらえて着席したところで本番の試験が開始された。 「先生、質問の意味が分からない」 「これで正解ですか」 問題用紙が配られた途端に、級友は試験監督のチーム先生に矢継ぎ早な質問を投げかけた。先生がその質問に答え、生徒のあいだでも意見交換が行われ、挙句の果てにカンニングペーパーをまで回覧された。点数のためには手段を選ばない仁義なき雰囲気が教室に満ち満ちていた。 与えられた試験でよい点を取ることが目的化した大学院を目の当たりして、 〈みんな、なんのために大学院へ入学したのだろう〉 と、素朴な疑問を感じた。働きながら大学院に通っている級友を、専業学生がとやかく言う権利はないのかもしれない。しかし、一度も講義へ出席することなく試験の点数だけに一喜一憂する級友を見るにつけて、大学院の意義そのものに大きな疑問を抱かざるをえなかった。十点満点で六点以上の成績を残さなければ卒業に必要な単位がもらえないのは事実としても、試験の結果だけに興味を集中させる学生の姿勢が大学院という最高学府に相応しいものとは思えなかった。点数を一点でも上げてもらおうと講師の部屋に押しかける学生はいても、講義の内容について質問するために講師の部屋を訪れる学生は一人もいなかった。 |
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『生態系』の試験が終了した翌日から、『廃棄物処理』という新たな講義が始まった。真冬のデンマークから派遣されてきた教員は、メコンデルタの暑さに疲れたような顔で早々に講義を切りあげて、 「私の講座は一方的に教員が話すだけの講義ではなくて、みなさんで議論をする班作業に重点を置きたいと思います」 と、学生の自主性を尊重したゼミナール形式の班作業を宣言した。 「課題Aはアキラが班長で、班の名前は『フタコブラクダ』にしましょう」 民主的な手続きを完全に無視して、級長のホンがホワイトボードに私の名前を書いた。当事者が呆気に取られているあいだに、「蜜蜂」「ナンバーワン」「将来」という脈絡のない班の名前と、その責任者たる班長が次々に指名されていった。それに引き続いて、 「はい。僕とチンはアキラの班に入りたい」 と、他の級友が自ら希望する班に立候補を始めた。それぞれの班には異なる課題が与えられていたにも関わらず、彼らは「課題に興味があるから」という理由ではなく、「誰々さんがいるから」という基準で自分の所属する班を選んでいた。 〈これじゃあ、まるで小学校の学級会だよ〉 どこか懐かしく、そして情けないような複雑な気持ちになった。 班ごとの議論が始まれば、声の大きい女性や年長者が、根拠のない思いつきで自分の意見をぶちまけた。その後は、さっさとパソコンルームでゲームに熱中したり、大音量で音楽を流したり、なかには一人で先に帰宅してしまう者もいた。みんなで顔をあわせて「課題の意図を確認する」「議論の条件を整理する」「順番に意見を出してから全体で討議する」「班の意見として取りまとめる」、というような、そんなまどろっこしい過程は一切省かれていた。 「もうすぐ四時半になるよ。早く帰りましょう」 帰宅する時間ばかり気にするホンが議論を打ち切り、 「最初から三頁目までは私。そこから次の段落まではタン。残りはアキラね」 と、翌日までに読んでくるべき資料の分担を手際よく指示してから散会した。 ところが、その翌日、私を除いた誰一人として割り当てられた資料に目を通してきた班員はいなかった。議論を続けようにも背景を理解している班員がいないので、必然的に私が取りまとめて発表のスライドを作成することになった。他の班員はといえば、資料を読んでこなかったことへの謝罪があるどころか、「よろしく」の挨拶すらなく、私が作業している隣のパソコンで悠々とインターネットに耽っていた。 〈他人に作業を押し付けて、罪悪感というものがないのだろうか〉 日本では経験したことのない腹立たしさを、作業に没頭することで忘れようとした。ところが、発表用のスライドが完成する間際になったところで、他の班員が傷口に塩を塗りこみにやってきた。 「アキラ、スライドの作成はまだか」 まるで彼らの下僕にでもなったような気分の悪さを感じた。 〈何もせず、何も手伝わずに、よくもしゃあしゃあとそんなことが聞けるものだ〉 心の中で毒づきながらも、彼らに申し訳なさのようなものが微塵も感じられないことを訝しんでいた。どうやら悪意がまったくなさそうなのである。しかし、仮にそうだとしても腹の虫は治まらなかった。 「この講義は、筆記試験が六割、班作業の発表が四割の比率で成績が評価されるらしいから、スライドはきれいに作ってね」 どこから仕入れた情報なのか点取りに関わることには耳が早かった。しかも彼らは、発表の内容ではなく、スライドの見栄えが評価を左右すると勘違いしていた。否、勘違いしていたのは、むしろ私のほうだったのかもしれない。実際のところ、スライドやレポートの見栄えが成績に与える影響は甚大だった。ベトナム人の学生がレポートを提出するとなれば、中身は他人の文章をコピーしただけの流用でも、表紙のレイアウトとカラフルな色使いには最後の最後まで悩み続けていた。 「タイトルの色は、カラフルにしないと見てもらえないよ」 「この写真は、もっと大きくしたほうが見栄えがする」 手を動かさない班員は、追い込みの作業をする私の横に足を組んで座り、喧々諤々とまるで姑のように口だけを動かし続けた。結局、スライドのタイトルは目がちかちかする七色のグラデーションに変えられ、写真は不恰好に引き伸ばされて縦横の比率が崩れたピンボケになった。 「最後のスライドに『Thank You』を入れないと駄目だ」 「いやいや『Thank you very much!』だろう」 「班の名前と班員の名前を最初のスライドに入れて」 「それじゃあ班員の名前の順番がおかしい」 諦めて自分の感情を押し殺そうと努力したが、まるで奴隷のように班員の注文に応えているうちに怒りで頭が真っ白になった。発表の中身など、彼らには、まったく興味がなかったのだ。 〈努力すれば必ず報われる〉 当たり前のこととして体に染み付いていた日本人的な道徳観が、カントー大学ではまったく通用しないことを痛感した。 そして、作業過程をまったく知らないデンマーク人の教授を前に、成績に重大な影響を及ぼす発表の時間を迎えた。 「尊敬する諸先生がた、ならびに親愛なる諸君」 仰々しい前口上に始まり、共産党書記長も顔負けの堂々とした演説を披露したのは、最初から最後まで課題を検討してスライドの準備をした私ではなく、最後まで班作業に顔を出すことのなかった最年長者のチンだった。 〈廃棄物管理の問題で、拳を振りあげてまでなにを訴えているのだろう〉 班作業の中身をまったく知らない彼に合理的な発表などできるはずもなかったが、スライドから完全に脱線した浪花節のような語り口調で発表が締めくくられると、教室からは割れんばかりの拍手喝采がわき起こった。 |
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こうして、初めての班作業は苦虫を噛みつぶしたような気分のまま終了した。信じられないことに、同じような蛮行が他の班でもまかり通っていた。さらに驚いたのは、汗をかかない班員がまるで自分の手柄のような顔をして他人の成果を発表しても、級友のあいだには倫理的に咎める様子がまったく見られなかったことだ。地道に作業をする人間と声が大きくて口の達者な人間のあいだに、無言の役割分担がなされていた。 私は自から先頭に立って班作業に取り組んだ。しかし、そうすればするほど、依頼心の強い級友が、 「アキラの班に入りたい」 と、満面の笑みを浮かべて手を挙げた。たかりを目的にしたチンピラのような面々が夢に出てきそうだった。こうして、班作業が始まるたびに、私は寄生虫に宿られた親生物のような哀しみを感じながら深い溜息をつくことになった。 できる人がすべてをやるのが当たり前というメコンデルタの常識を前に、班作業は完全に軽視されて崩壊していた。問題解決能力と自主性が大前提になる学生主体の作業は、カントー大学の教育には百パーセント馴染まなかった。 班作業の検討過程では個性が排斥され、奇抜なアイデアは未然に摘み取られ、最後は「団結」という名のもとに当たり障りのない総意の美辞麗句で強引に厚化粧がなされた。この結果、各班の発表内容は横並びとなり、自ら考えて創造する能力の形成が著しく阻害されていた。こんな没個性的な大学教育の賜物ともいえる級友と向き合いながら、留学生一人の力ではどうすることもできない大きな壁を感じていた。 たった一度だけ、この眼に余る班作業の窮状に耐えかねて堪忍袋の緒を切らしたことがある。約束したにも関わらず資料を読んでこない班員をなだめすかし、二日以上かけて議論を先導して、手の込んだ資料を一人で作成したときのことだった。 「こんなテーマはおもしろくないから、別の話題に変えないと駄目よ」 途中の議論に参加しなかったニェー姉さんが発表の直前に突如として教室に現れ、高圧的な態度で無神経な発言をした。年長者や女性の傍若無人な振る舞いはいつものことだった。しかし、このときばかりは、ついに私の中でスターリン像が音を立てて崩れ落ちた。 「面倒なことはやらないで後から文句だけ言うのはおかしいと思う。ここは大学院だろう。これじゃ小学校だよ。口ばかりで誰も手を動かさないし、誰も責任を取らないのはどういうことなの。こんな班の発表なんかやめてしまえばいい。みんな一緒に単位を落とせばいいんだよ」 そう叫んでから、椅子を蹴りあげるようにして席を立った。 私の「八月革命」だった。 ベトナムでは、どんなに理不尽なことがあっても、人前で大声を出すのは教育がない人と考えられている。級友は烈火のごとく憤激した私を遠巻きに眺めながら絶句していた。 「わー、アキラの部屋は涼しいなー。タイガービール飲んだのか? 豪勢だなー」 「おいおい、ゴミ箱の中身までチェックするな。僕の部屋を検査しに来たのか?」 タムとタンが心配してホテルの部屋まで様子を見にきた。それすらも、班の発表ができなくなることを心配しての行動だろうと邪推するほど人間不信と疑心暗鬼に陥っていた。三人で近所のカフェに向かい、体を冷やす青汁を勢いよくあおったところで、ようやく平常心を取り戻すことができた。 「大丈夫? 怒りはおさまった?」 教室に戻ってみると、級友が伝染病患者でも見るような顔つきで声をかけてきた。怒ったところで自分の真意は伝わらないどころか、心の病に侵されているという同情をもらうのが関の山だった。異邦人の革命は、あっけなく政府軍によって鎮静化されてしまった。 本当は焦点のずれた同情をするくらいなら、班作業に取り組む姿勢をみせて欲しかった。 〈そんなことやっている前に、先にするべきことがたくさんあるだろう〉 メコンデルタで生活しながら、そんな苛立ちを感じる場面に何度となく遭遇した。社会的な背景の違いを机上で文化人類学的には理解できても、実際の不都合が自分に降りかかってくれば生理的に我慢できる限界もある。その限界値を自分の中で高めながら、異なる価値観を少しずつすり合わせるようにして着地点を模索するのが、異文化圏で生活するために不可欠な能力であり、必要とされる努力でもあった。 ![]() 〈この週末にはサイゴンへ行こう〉 メコンデルタに住んでいると、「ホーチミン市」あるいはベトナムの人々が旧称で呼ぶ「サイゴン」という言葉には、琴線に触れる格別の響きがあった。日本人としての存在証明を極限まで抑制して、ひとりごと以外はすべてベトナム語か英語という生活をしていた私は、気がついてみると心身ともに疲労困ぱいしていた。その溜まったストレスを発散するべく『廃棄物処理』の講義が終わった週末にホーチミン市へ出かけることにした。 定期的な都会での買出しと精神的なリフレッシュは、外国人がメコンデルタで健全な生活を続けていくうえで欠かすことのできない「ガス抜き」だった。当時のカントー市にはスーパーマーケットが一軒もなく、日本食どころか輸入食品や嗜好品を手に入れることすら難しかった。そんな生活を送っていると、ときどきホーチミン市の百貨店に並んだ煌びやかな商品や大型書店で平積みにされた専門書の映像が頭に浮かび、唯物的な欲望が大いに刺激された。 ホーチミン市へ上京する前日の晩に、数件のミニバス会社が軒を連ねるカントー市のバスターミナルへ座席の予約に向かった。 〈ドライバーの運転が荒い〉 〈提携している休憩所の飯がまずい〉 〈車種が古くて座席の間隔が狭い〉 価格設定がドングリの背比べでもサービスの質には雲泥の差があったので、頻繁にホーチミン市を行き来するカントー在住の外国人は、ミニバス会社の評価や問題点の情報交換に余念がなかった。 悪い噂を聞かない旅行会社のカウンターを選んで行き先と時間を告げると、カウンターの女の子がノートに手書きされた座席表を提示した。 「えーと、もう補助席と助手席しか残っていないけどいいですか」 どの席に座っても値段は同じだが、座り心地はまったく違った。運転席のすぐ後ろの列が特等席で余裕を持って足を伸ばせる。補助席に座れば窮屈で不快な思いをする。助手席ならば恐怖のカーチェイスを目の当たりにして気分が悪くなる。四時間以上のバス旅を考えれば座席の選定には慎重を期さなければならなかった。この日は、補助席を避けるために敢えて一つ早い便にミニバスを変更した。 出発当日の朝、バスターミナルでミニバスに乗り込んだところ、予約してあった番号の座席に見知らぬおばさんが大きな荷物を抱えて陣取っていた。 「おばさん、そこは私の席ですよ」 「どこでも同じよ。そっちに座りなさい」 まったく臆することのないおばさんの言葉に気押されて、自分が間違ったことを言っているような気さえした。しかし、出発便を変更してまで手に入れた自分の座席を簡単に手放すわけにはいかず、運転手にチケットを提示して仲介を願い出た。すると、おばさんは渋々、私の席を明け渡した。ここで負けていたら、足の位置を五センチずらすことも困難な補助席で、痺れる四時間を耐え忍ばなくてはならなかった。 一悶着終えてから自分の席に腰を下ろすと、冷たいボトルの水と袋入りのおしぼりが配られた。それから、バスの窓を開けて外の売子さんから新聞を購入した。私はスキャンダル記事が多い「公安」という新聞を愛読していた。 〈悲惨! 不倫の末に一物を切り取られた好色夫の顛末〉 〈これでいいのか、大学生の風俗店通いを暴く〉 〈違法車両からの賄賂を断った交通警察の英断!〉 社会主義共和国の新聞とは信じ難い三面記事の見出しが一面を飾る大衆紙。出発までのあいだに一通り読んでしまうと、無言のうちに他の乗客が読み終わった新聞との交換が始まり、共産党系の「青年」や「若者」という他紙が回覧されてきた。
カントーとホーチミン市を繋ぐのはベトナムを南北に縦貫する国道一号線。この国道に沿ってカントーのバスターミナルを発ったミニバスは、五分としないうちにハウ河の渡河地点に到着する。「車を降りて川を渡って!」 運転手が大声で怒鳴ると、乗客は貴重品を手にしてミニバスから降りだした。 「後ろのおばあちゃんは乗ったままでもいいよ」 と、運転手が付け加えた。 ミニバスの運転手は実際よりも少ない乗車人数を申告して、安いフェリーチケットを購入していた。運転手の小遣い稼ぎか組織ぐるみの方針なのかは不明だったが、いずれにしても乗客に不便を強いる迷惑なシステムであることに変わりはなかった。大型バスの場合には、 「カーテンを閉めてから身をかがめろ」 という号令がかかり、乗車人数を外から数えられないよう身を潜めることもあった。逆に乗客全員から数十円ずつの追加料金を徴収して乗り場の係員に手渡し、待ち時間なしの優先レーンでフェリーに乗り込むこともできた。さじ加減に応じてハウ河を渡るための時間は大きく伸び縮みした。 ミニバスを降りた私たちは、運転手から手渡された四円ほどの歩行者用チケットを握り締め、徒歩の乗客としてフェリーに乗り込んだ。人ごみの中で迷子にならないように、目立つ色の帽子をかぶった同乗の女性を目印にして後を追った。外見がよく似たミニバスがたくさん乗降しているので、一瞬でも気を緩めると自分のミニバスを見失いそうな緊張感が漂っていた。 ハウ河を渡った対岸はヴィンロン省。フェリー乗り場から省都ヴィンロンまでの国道は、直線的で高速走行が可能な道路だった。ところが、そんな走りやすい道路にも関わらず、ミニバスはいっこうに速度をあげる気配を見せなかった。 〈どうして、こんなにゆっくり走るのだろう〉 他の区間であれば時速八十キロ以上で狂ったように国道を駆け抜ける車が、まるで亀の行列のように軒並み時速二十キロ走行で数珠繋ぎになっていた。対照的に猛スピードで走り去る対向車線の運転手は、ひっきりなしにパッシングをくり返し、親指を下にして手を振りながら何かの合図を出していた。そして、低速走行を続けるミニバスから車窓の風景を眺めていたところ、数人の警察がたむろしているカフェの前をゆっくりと通過した。 〈ネズミ捕りか〉 ヴィンロンの国道一号線は、メコンデルタでも悪名高い交通警察の取り締まり道路だった。車の速度が不自然に落ちたら、必ずその前方では交通警察の取締りが実施されていた。 「今日はどこだ?」 「高校手前のカフェだ! 気をつけろ」 運転手たちはすれちがいざまに窓を開けて怒鳴りあい、車のライトや手信号を使って取締りから身を守ろうとしていた。こんなやりとりに気がついてからは、単調なバスの車窓がドラマの舞台のように臨場感溢れる駆け引きの場へと早変わりした。 そして、ヴィンロンの街中まで残すところ数キロの地点にさしかかったところで前方に大型トラックが停車していた。 〈エンジンの故障だろうか〉 そう思って眺めていたところ、トラックの影から交通警察が飛び出してきて、前を走っていた車両が奇襲作戦の餌食となった。車内からは感嘆とも批難ともつかない溜め息交じりの歓声があがった。 一度だけ、自分の乗っていたミニバスが夜間走行中に速度違反で捕まったことがある。最初の取締り場所をノロノロ運転で通過し、運転手が安心してアクセルを踏み込んだところ、その数百メートル先に第二陣の取締りが待ち構えていた。スローモーションのように草むらから警棒を振りまわしながら警官が現れて、車内のあちこちで舌打ちの音が鳴り響いた。 〈なかなか、警察も考えるものだな〉 先を急ぐ運転手の心理を突いた絶妙のネットワークに思わず唸った。 そんな交通警察も雨が降れば早々に引きあげるので、天候が荒れた日ほどホーチミン市への所要時間は短くなった。 ![]() ヴィンロンの街を過ぎると交通警察の心配もなくなり、ミニバスはぐんぐんと加速しながらメコン河を跨ぐミートゥアン橋を渡った。オーストラリアの援助で完成した巨大な斜長橋からメコンデルタを見渡すと、地球が丸いことを実感する大パノラマが広がっていた。橋を渡り終えた先はミートーを省都とするティエンヤン省。国道沿いには日本の「道の駅」や「ドライブイン」に類する休憩所が軒を連ねている。ミニバスは契約している休憩所に立ち寄って三十分ほどの休憩に入った。 衛生状態がよくない休憩所での飲み食いは躊躇されるのだが、バスに揺られた後はお腹が減るらしく何かを口にしたくなった。市価の二倍もする豚肉のフランスパンサンドとカフェスアダーの味は、お世辞にも旨いとは言えなかった。 豚肉にこびりついた臭みのある脂を削ぎながらフランスパンをかじっていると、目の前に扇のように広げられた宝くじの束が突きつけられた。 「兄さん宝くじを買って、僕を援助してよ」 全国共通の売り口上を棒読みする少年に目を合わせるのはエネルギーの無駄使い。それでも沈黙は「検討中」とみなされるので、軽く腕をあげて手首を回転させながら、「いらない」という意思表示をする必要があった。こういうときは、遠い目をするのが一番効果的だった。 「最新の歌詞が載った歌本だよー」 宝くじ売りと入れ違いで段ボール箱に小説や歌詞集を詰めた男がやってきた。さらに、その背後には目の見えないおじいさんの手を引いた子供の物乞いも控えていた。物売りたちは食堂と契約しているらしく、いつも同じ顔ぶれで隊列を組んでいた。 ホーチミン市に向けて休憩所を後にしてからまもなく、ミニバスの速度が急に落ちたところで乗客が一斉にざわめいた。 〈また交通警察かな〉 対向車線の路肩に止められたパトカーの先に大型トラックが見えた。低速で通過するミニバスの車窓から、トラックの車輪に巻き込まれた自転車が目に飛び込んできた。 「死んでいるみたいだぞ」 事故現場に近い側に座っていた乗客が声をあげると、車内は重苦しい雰囲気に包まれた。ベトナムの国道を行くということは命を預けた賭けでもあり、ここで眼にした交通事故は決して他人事ではなかった。交通倫理が徹底されていないベトナムでは、バイクの転倒事故のみならず、正視するに忍びない乗用車や大型車両による大惨事も珍しくはなかった。 そんなロシアンルーレットをまわし続けるような「国道サバイバル」を続けること四時間あまりを経て、ようやく終点のミエンタイ・バスターミナルに到着した。ミニバスから降車すると、エコノミークラス症候群に罹ったような足腰の疲労と、激しい揺れによる軽い眩暈を覚えた。 「乗ってく?」 バスターミナルの入り口で待ち構えていたバイクタクシーのおじさんが、すきっ歯の笑顔を見せながら人差し指を跳ねあげた。それに軽く頷けば、煌びやかなサイゴンの街は、もう、すぐそこにあった。 |
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留学生活を始めてから、自分の中途半端な英語力にベトナム語と同じか、それ以上のもどかしさを感じていた。日本人のご多分にもれず、私の英会話能力は読み書きに比べて著しく実用性を欠いていた。デンマーク人の講師に英語で質問をしたくても、頭の中でフレーズを組み立てて何度も反芻しなければ口に出すことができなかった。むしろ反射的に会話のキャッチボールができるという点では、学習暦わずか二年足らずのベトナム語に分があった。 〈将来のことを考えても、ここで英会話の能力を磨かいておくべきだろう〉 ホーチミン市で心身の充電を済ませ、体中にやる気がみなぎっていた私は、一念発起してカントー大学の外国語センターに足を運んだ。大学院と同じキャンパスの中に建てられた外国語センターは、大学の付属機関として一般人を対象にしたさまざまな語学コースを提供していた。そのサービスは、英語のみならず、フランス語、ロシア語、中国語、日本語などの他言語にまで及び、レベルや目的に応じた各種のプログラムが充実していた。目移りしそうになる多彩なコースを吟味して、最終的に『進度Cの英会話』というコースに申し込んだ。 英会話コースには、カントー市総合病院の医者、極秘任務でインドに向かう予定の軍人、タイと交易をしているビジネスマン、フライトアテンダントを夢見る女の子など、大学院の学生とは一味違った背景の社会人が顔をそろえていた。 「申し訳ありません。私は耳がちょっと遠いので、もう一回お願いできますか」 あくまでも紳士的なカナダ人教員は、我慢強く、何度も生徒の話すベトナム英語に神経を集中させていた。ベトナムの人は堂々と間違えた発音で英語を話す傾向がある。黙りこんで萎縮するよりも、会話が継続するという点では好ましいことなのだが、この根拠のない自信に満ちたベトナム英語を聞き取るのは、なかなか手ごわい作業だった。 ベトナム英語を聞き取るためには、ベトナム語の発音に対する理解が大きな手がかりとなる。たとえば、ベトナム英語に特徴的な語末の処理。ベトナム語では末子音を発音せずに舌の位置だけで「T」や「C」を区別する。このため、英語の語末も同じように発音が省略されてしまう。語末の処理に関して一番不可解なのがゴルフ (Golf) だ。日本人の英語が語末をべったり発音しすぎるという傾向を割り引いても、「ゴルフ」の「フ」は有声音に違いない。しかし、ベトナム人の発音は寺の鐘でも打ったような「ゴーン」となる。 こうして、ベトナム英語の謎解きを進めるうちに、私は一つの疑いをもつようになった。 〈ベトナム人は、英語を外国語として認識していないのではないか〉 という根本的な疑念である。ベトナムの人々が母国語を読む感覚で英語の発音をしていると考えれば、ベトナム英語の特徴に一定の法則を見出すことができた。たとえば、ベトナム語で「TRA」という綴りには「チャ」という独特の発音が与えられる。同じ綴りでも英語の場合には「Traffic(交通)」のように「トラ」という発音が一般的だろう。しかし多くの場合、ベトナムの人々は「トラフィック」ではなく「チャフィック」と発音する。これは英語の綴りをベトナム語の音で発音していることの証である。 |
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しかし、英会話教室の真骨頂は英語の発音云々ではなく会話の内容にあった。毎回の授業ではグループに分かれて英語で討議を行い、集約した意見を取りまとめて発表をすることになっていた。その過程で、大学院の班作業を髣髴とさせるカルチャーギャップを感じていた。 「みなさんは旅行会社の社員です。旅行ツアーの企画書を作って、それがいかに楽しいものかを発表してください。最後に一番魅力的なツアーをみんなの投票で決めましょう」 オーストラリア人の教員が議論のテーマを発表して、グループ分けが行なわれた。 「外国とか月とか、夢のある場所に行くツアーはどうでしょうか」 私が提案した奇抜な意見に、他の生徒からは、まったく反応が返ってこなかった。彼らの意識はもっと身近なところで驚くほどに統一されていて、私を除く全会一致でツアーの目的地は「ホーチミン市」に決定された。 「それではツアーの目玉になる目的を設定してください」 と、先生が言い終わらないうちに即決した旅の目的は「親族訪問」であった。 親族訪問を旅行ツアーと呼べるか否かの疑念を挟む間もなく、議論の必要性を感じさせない思想の統一感にただただ圧倒された。ベトナムの地方に住む人々にバカンスやレジャーを目的にした旅行の概念は浸透していなかった。親戚や知人を訪問することが、もっとも優先度の高い旅行の目的であり喜びでもあった。戦争を境にしてベトナム北部に親戚を残してきた人、家族から離れてホーチミン市へ出稼ぎに行った人、何年も会うことのできないアメリカに亡命した親類縁者。家族としての血の繋がりを何より重んじるベトナムの人々にとって、離れた場所に住む肉親との再会ほど尊いものはなかった。新幹線や飛行機を使えば国内はおろか海外にまで好きなときに行き来できる日本人には、ベトナムの歴史的・民族的な背景を慮ることができなかった。 続いて、ツアーに必要な持ち物の検討が始まった。 「バスの中で食べるお菓子」 「家族の写真」 「お土産の果物」 ついに「旅行ツアー」というテーマを超越した「親族訪問ツアー」の全貌が姿を現した。議論が白熱するにつれて英会話ではなくベトナム語のお喋りになり、外国人の私は完全に蚊帳の外にはじき出されてしまった。 休憩を挟んでからは、「理想の男性とその理由を答えなさい」という、新しいお題が提示された。積極的な生徒たちは、さっそく我先に手を挙げた。 「はい。それはトム・クルーズです。彼はハンサムですから」 「やっぱりビル・ゲイツです。彼はお金持ちですよ」 「チャップリンでしょう。彼にはユーモアーがあります」 回答を聞いているうちに、だんだんお尻の辺りがもぞもぞして居心地が悪くなってきた。 「ヘラクレスです」 悪い予感は的中し、雲行きが一気に怪しくなった。 「彼は健康そのものです」 その理由も、すんなりと受け入れられるものではなく、なにを議論しているのかさえ、よくわからなくなってきた。そして、とどめの一撃を迎える。 「仏陀です」 頭がクラクラして、悪い冗談かと疑いたくなった。 「彼は誠実です」 理想の男性に仏陀を挙げる女の子の顔は真面目そのものだった。 メコンデルタの人々の思考回路を知る場としては興味深かった英会話コース。しかし、大学院の試験や講義の準備が重なるにつれて授業から足が遠のき、志半ばでリタイアせざるをえなかった。そして肝心の英会話力が増したとは、とうてい思えなかった。 |
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外国語センターの英会話コースには、大学の付属病院、市の総合病院、軍病院、と異なる病院に勤務する五人の医者が出席していた。彼らとの英会話を通じて、 〈こんな英語を話す医者の世話にはなりたくないなー〉 と、思っていた。その中でかろうじて聡明な感じのするカントー大学医学部の女医さんが、英会話教室でボランティア活動を呼びかけた。 「スイス人の医師団と協力して、カントーの教会関係者が洪水の被災地域で医療活動を行います」 物資の配給で活動の一助を担えると聞き、メコンデルタの洪水を研究する学生として参加を申しでた。 ボランティアの訪問先は、カントー省の外れにあるロンミーという貧しい農村だった。早朝五時にカントー市の総合病院を出発してから、のんびりした速度の軽トラックに二時間ほど揺られ、その後、さらに細長い木製のボートに乗り換えた。一直線に掘られた人工水路の両脇には整然と植えられたアカシアの並木が続き、代わり映えのしない風景の中を三十分ほど進んだところでようやく目的地の村に到着した。 ボランティアを出迎えたのは、貧困農村には不相応な美しくて豪華な教会だった。メコンデルタでは、どんなに貧しい僻地の村にも心のよりどころとしての宗教施設が建立されていた。それは、カトリックの教会であったり、仏教寺院であったり、新興宗教の毒々しい色使いの塔であったりとさまざまであったが、 〈いったい、どこからこんな建築資材を運んできたのだろう〉 と、悩ましくなるほど豪華な造りで共通していた。華美な宗教施設は、周囲の貧困家庭から僅かな富さえも吸いあげてしまう物欲の象徴にも見えた。 スイス人の医師団が教会の敷地内に建てられた小屋に入ると噂を聞きつけた村人が集まりだし、聴診器と血圧計の簡易な医療器具を用いた診察が始められた。医者が診療をしているあいだに、私を含むボランティアやスイス人医療チームの調整員は周辺の貧しい家庭に物資を配給してまわった。 ![]() 「この家には子供が何人いるの?」 軒先から各戸の家族状況を尋ねながら、赤土が剥き出しになった細い道を進んだ。普段はよそ者が訪ねてくるような村ではないので、西洋人を含むボランティアが歩きまわる姿が住民の関心を集めた。 「こんにちは」 すれ違う子供たちは緊張気味に腕を胸の前で水平に重ねて、とても丁寧なお辞儀をした。ベトナムの子供たちが躾として学ぶこの挨拶も、ホーチミン市やカントーの街中で見かけることはあまりなかった。 「あらあら、この家は本当に貧しいわね」 「こんなボロボロのベッドでどうやって寝るのよ」 カントーの教会からやってきたボランティアの中年女性は、村人の面前で無神経な大声を張りあげながら、インスタントラーメン、ノート、衣類などを子供たちに手渡した。水椰子の葉を編んだだけの貧しい家々には、土の上に置かれた木製のベッドと箪笥を除けば家具と呼べるような代物は見当たらなかった。ロンミーの村人は、社会基盤整備が行き届かない僻地で街の貨幣経済から完全に隔離されていた。周りの池や川で魚を捕り、痩せた土地でパイナップルやサトウキビのような生産性の低い農業を営み、自給自足を軸にして、なんとか生活していた。しかし、そこは南国メコンデルタ。降りそそぐ陽光と真紅のハイビスカスが、その強い原色の輝きで生活の陰鬱さを覆い隠していた。 「ここではどんなに貧しくても、飢えたり凍えたりはしない。それが北部ベトナムとは違うところだ」 メコンデルタの人々は自慢げにそう語る。あちらこちらに実をつけるバナナやパパイヤなどのトロピカルフルーツが、その事実を証明しているようだった。 往診と物資の配給が一段落したところで、ボランティアの一団は教会が主催する昼食会に招かれた。ふるまわれた豪勢な鍋料理に箸をつけながら、貧しい家々に配り歩いたインスタントラーメンの袋を思った。私たちが食べ残した昼飯に群がる村の子供たちを後にして、すっきりしない気持ちだけが心にわだかまった。 ベトナムという国に関わるようになってから、「貧しさ」とは一見さんの外国人には理解できない奥深い概念だということに気がついていた。格差社会の到来が囁かれる時代を迎えたとはいえ、一億総中流の国民意識に浸かってきた日本人の感覚でベトナムの「貧しさ」を受け入れるならば、地べたを這って無心に訪れる足のない物乞いを前に、高級レストランでの夕食を楽しむような腹芸はできない。 〈夕食を放棄すれば何かが解決すのか〉 〈金品を手渡せば誰かが報われるのか〉 貧しさとは、そもそも「かわいそう」という高みの見物で片付けられるほど単純な問題構造になっていない。貧しさの意味を探るということは、お茶の間のテレビで貧しい人々の暮らしを眺めながら道徳的なナレーションに頷き、その一瞬だけ心を痛めるパフォーマンスとは勝手が違う。メコンデルタの「貧しさ」に関して言えば、人それぞれに与えられた条件の下に「生きていく」しかないという暗黙の了解が、冷酷なほど現実的な運命として人々のあいだに共有されていた。 そんな現実を看過できない外国人旅行者がいて、そこに貧しくも逞しい人々のビジネスチャンスが生まれる。十把一絡げにするつもりはない。しかし、多くの外国人旅行者は、自分と貧しい人々とのあいだに強かなビジネスが成り立っていることを知らずにベトナムを去っていく。「貧しさ」や「貧困」という言葉が意味する曖昧さと、その複雑な背景は、唯物史観だけで説明ができるほど直感的な概念ではないのだ。 カントーへ戻る軽トラックの荷台に乗り、二時間以上も膝を抱えたまま身動きを取ることができなかった。痺れて感覚がなくなる足を摩りながら、わずか一日のあいだに経験した抱えきれないほどの出来事に思いを巡らせた。自分を納得させるために短絡的な結果を求めようとすればするほど、答えはメコンデルタの風の中に消えていくような気がした。 |
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メコンデルタの雨季が終わりを告げて師走がやってくるのと同時に、『環境医学』という非常に難解な講義が始まった。医学用語辞典を使わないと意味のわからない単語で埋め尽くされた三百枚を超えるスライドは、わずか五日間の講義で咀嚼できる内容とは思えなかった。こんな講義を突貫工事で実施する大学院もさすがに無理を感じたらしく、講義後の試験を無期延期するという通知を出していた。ところが講義の最終日になって、 「申し訳ないけれど、予定変更を変更して今日の午後に試験をします」 という唐突な報告が行なわれて、教室は阿鼻叫喚の巷と化した。 「試験の前に、あのデンマーク人を川に沈めたほうがいいな」 私の悪い冗談にタムが大きく頷き、嬉しそうに放り投げるマネをしてみせた。 「ぜんぜん内容を理解できていないわ」 「このまま試験を受けても落第だよ」 怒号と不安の声がやまなかった。 「試験中に先生が助けてあげるから心配しなくていいよ」 通訳のベトナム人教員が約束しなければ、その場の収拾はつかなかったことだろう。 沈鬱な気持ちでホテルに戻り、昼飯のフランスパンをかじりながら、どこから始めればよいのか見当もつかない講義資料を必至に読み込もうとした。 「発がん性 (carcinogenicity)、発がん性、発がん性」 「代謝 (metabolism)、代謝、代謝」 「肺胞 (pulmonary alveoli)、肺胞、肺胞」 綴りの覚えられない英単語を暗記するために機械のように書き取りを続けたものの、しだいに気分が悪くなってきて最後はベッドに倒れこんでしまった。 そして、無常にも試験が実施された。参考資料の持ち込みも禁止された厳格な筆記試験。そのはずが、蓋を開けてみればベトナム人教員が口頭で解答をほのめかす、とんだ八百長の三文芝居だった。 「先生、この二番目の問題はどういう意味ですか」 「ほとんど答えになっちゃうけど、それはね、○×△□」 しかし残念なことに、私の能力ではベトナム人教員の丁寧な解説を聞き取ることはできなかった。 〈喘息は気管支の炎症であり免疫学的媒介によって発病し、その因子はクロム塩や有機塵である〉 化学や医学の専門家でもない日本人が、こんな内容をベトナム語で聴解できるはずがない。仮に聞き取れたとしても、それをベトナム語で答案用紙に表現するためにはまったく別の能力が要求されるだろう。級友はベトナム人教員が読みあげる模範解答を聴き取り、それを答案に書き写せばよかったのだが、私は医学用語の綴りを必死に思い出しながら自力で英語の答案を作成するより道は残されていなかった。 「まだ終わらないのですか」 右手でホチキスをカチカチいわせて、答案用紙の提出を催促しにきたデンマーク人を憎んだ。克服することのできない言葉の未熟さを嘲笑されたような気がして、涙が出るほど悔しかった。努力が足りなくて、自分が怠けていた結果の報いであれば甘んじて受けもするが、不平等条約を一方的に押し付けられた『環境医学』の試験には納得できなかった。 〈医学の基礎がない学生に、わずか五日間でこれだけの内容を理解できるわけがない〉 試験が終わってから配布されたアンケート用紙に、びっしりと抗議のコメントを書き殴った。 「今回の講義は時間的にも内容的にも厳しかったと思います。みなさんの将来には関係のない内容かもしれないし、もしかしたら深く関係することになるかもしれません。『環境』という大きなくくりの中で、ここで学んだことを忘れずに追求してください。人間も環境の一部なのです」 最後の挨拶まで「言語明瞭意味不明」な能書きをたれる講師に、学生からは「早く帰れ」と言わんばかりの拍手喝采が送られた。 翌年のカリキュラムから、『環境医学』は抹消された。 |
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理不尽な試験を終えてからホテルに戻った途端、それまでに経験したことのない強烈な疲労感に襲われた。立っていることすらできず、スイッチが切れたようにしてベッドへ倒れこんだ。しばらくして目が覚めると、私は電気がついたままの部屋で仰向けに横たわっていた。すると、見あげた部屋の天井がぐるぐるとまわり、ネジ巻きのように元の位置に戻ることをくり返していた。 〈なんだ? これは〉 突然、全身に悪寒が走り、ほとんど同時に激しい腹痛に襲われた。慌てて駆け込んだトイレで座り込んだらガタガタと両膝が震えだした。さらには、強い吐き気までもよおし、体験したことのない急激な体の変調に恐怖を感じた。 〈これがデング熱なのか? それともマラリアか?〉 意識が朦朧として助けを呼ぶ気力さえも失い、再びベッドに倒れこむしかなかった。思い返せば数日前から伏線はあった。『環境医学』の講義で体力的にも精神的にも疲弊し、「巨大なタニシに腕を噛みつかれる夢」を見たりして熟睡できない日が続いていた。 翌朝になっても頭痛と寒気は治まらず、目の奥が重たく感じられたので、カントー市の総合病院へ駆け込んだ。ところが、患者と付き添いの家族でごった返した不衛生な院内を目にして余計に気分が悪くなった。 ベトナムで病院へ行くには付き添い人の存在が必須の要件だった。たとえば、起きあがれない病人に点滴をすることになったとすれば、 「この紙を持って別棟の二階に行きなさい」 と、看護婦に告げられる。付き添い人は、病人を蒸し暑い病室においたまま別棟に出向き、生理食塩水が入った袋を購入してから病室へ戻って再び看護士さんを呼びに行く。すると今度は、 「針とチューブがないのに点滴なんかできるわけがないでしょう」 と、田舎者を見るような目つきで冷たくあしらわれる。仕方なく人づてに病院内のお店を紹介してもらい、針とチューブを探して院内をさまよう。こうして、あちこちの窓口や関係者を捜し求めて病院をたらいまわしにされるうちに、患者の病状が悪化の一途を辿ることも珍しくない。治療代が踏み倒される事態を避けるために、どんなに些細な医療行為であっても、前払いでなければ相手にしてもらえなかった。 「金の切れ目が、命の切れ目」 例え重症患者が順番待ちをしていたとしても、医師への個人的なお礼さえはずめば、後から来た患者が優先的に治療を受けられるのもベトナムでは常識である。こんな医療事情のベトナムを知らずして、一人で病院に飛び込んだ私が無謀だった。 カントーの総合病院で診てもらうことを諦めると、もはやホーチミン市の外国人向けクリニックへ駆け込むしか選択肢はなかった。腹を決めてホテルの主人にタクシーを呼ぶように依頼した。 「どうして、わざわざホーチミン市まで行くんだ。金がかかるだけだぞ」 カントーの医者でも治せるのに無駄なお金を使うのはもったいないという、メコンデルタの人にしてみれば至極当然な回答が返ってきた。しかし、一般論としては共感できても、自分の身にかかわる問題となれば話しは別だ。 〈お金と命を天秤にかけられるはずがないだろう〉 心の声が叫んだ。正体の知れない病気でぐったりしていた私は、ただ一刻も早くタクシーでホーチミン市に向かうことを望んでいた。 「お金の問題は気にしないでいい。僕は健康保険に入っているから」 擦れた声を絞り出して、フックに精一杯の説明を試みた。 「その保険の番号は教えろ」 ここまでくると、ほとんど嫌がらせの領域である。日本で契約した留学保険の証書番号をミニホテルの主人が書き取ったところで、いったいどんな意味があるというのか。ベトナムでは、えてして肝心なときに不毛な会話が続く。ボールペンを手にして番号を控える気が満々のフックを大声で怒鳴りつけたかったが、肝心の腹に力が入らなかった。 「俺が薬をもっているぞ」 なんとしても私を引きとめようとするフックを説得してタクシーを手配させた。ところが、迎えに来たタクシーの運転手がホーチミン市へ行くのを露骨に嫌がり、低速走行をしながら無線で事務所とのやり取りを始めた。 「外国人でベトナム語を話せる客を拾ったよ、どうぞー」 どうして、その情報が必要なのか理解に苦しみ、聞いているだけで血圧が急上昇した。 「いいから、ホーチミン市へ行け!」 体の辛さが苛立ちに変わり、後部座席から蹴りつけんばかりの勢いで運転手に怒鳴った。冷静に考えれば、普段はカントー市内を走っている地方タクシーの運転手に、いきなり一七〇q先のホーチミン市へ行けというのも乱暴な話であった。 「どこの通りまで行くのですか」 「通りなんか知らん。サイゴン郵便局の近くの病院だよ。頼むからホーチミン市へ行ってくれ。後は俺が説明するから」 まるで、カントー市内の通り名を尋ねるような発言を聞くにおよび、運転手がホーチミン市の地理に明るくないことは一目瞭然だった。 「本部、本部、客はホーチミン市まで行けと言っていますがー、どうぞ」 「どこの通りなのか、わからないようです、どうぞー」 無意味な無線のやりとりだけが虚しく車内に響いた。怒鳴る気力さえも吸い取られ、私はドンヨアンホテルへ引き返すように告げた。運転手は迷走を終えてから嬉々としてユーターンし、思いっきりアクセルを踏みこんだ。 「ホーチミン市なんてやめておいて正解だよ。民間医にしときな。俺が連れて行ってやるから」 おとなしくフックの提案に身を任せるしかなく、すでに退路は絶たれていた。 〈風土病なら、カントーの民間医でも案外適切な診断ができるかもしれないし〉 そう自己暗示をかけるしかなかった。 フックが案内してくれた民間医の家は込み入った細い路地裏の奥にあった。小ぢんまりとした室内には待合所らしきスペースがあり、間仕切りの奥がベッドの置かれた診察室になっていた。 「日本人? オーケー、オーケー」 珍しいであろう外国人の患者を前にして、医者はぎこちない英語で診察を始めた。「すぽすぽ」と音がする巨大なゴムのスポイトで血圧を測り、それらしい聴診器で心音やお腹の様子を確認し、最後に喉の状態を診るという一般的な診察が行われた。その結果、 「アミダー」 という、恐ろしい響きの病名が宣告された。脊髄反射的に「あみだくじ」が脳裏をよぎったが、実際のところは何の病気なのか見当もつかなかった。 「心配ないよ、アミダーは切ってしまえば治るから」 そんな追加の説明を聞きながら、 〈扁桃腺のことだろうか〉 と思った。単なる扁桃腺の腫れで天井がぐるぐるまわるわけもなく、この診断には納得しかねたが、取りあえず処方してもらった薬を飲んで、温かいフォー(ベトナムの米麺)を食べてから早めに就寝した。 翌日になると、薬が効いたのか病状は劇的に回復していた。 〈民間医も侮れないものだな〉 と、ひとしきり感心した。 病みあがりで大学院に復帰したところ、それまでに見せたことのない同情の眼差しで級友が駆け寄ってきた。体調を心配してくれたのかと嬉しくなり、「ありがとう」を言いかけたところ、 「悲しむなよ。早く先生のところへ相談に行ったほうがいい」 そう勧められた。 『環境医学』の試験で、見事に一人だけ落第していた。
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