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1. はじめに(アジアにおけるベトナム)
ベトナム社会主義共和国は,タイ,カンボディア,ラオスなどの東南アジア諸国からなるインドシナ半島の東縁に位置する南北
に長い国家である.中国,ラオス,カンボディアと陸で国境線を接し,南シナ海を挟んでフィリピン,マレーシア,ブルネ
イ等と向き合う.
国家の最北端,中国との国境線は北回帰線(北緯23.7度)に接しており,一方の最南端バイブン岬は北緯8度付近に達する.
この縦に長い地理的な特性は日本との類似点であり,国内に気候や文化などの多様性をもたらしている.ベトナムは,それぞれの
地域で接する隣国が異なることから,単に国内的な影響のみならず隣接諸国との歴史的な相互作用を色濃く反映しており,北部の
中国文化や南部メコンデルタ地域のカンボディア(クメール)文化などが代表的である.
加えてフランスによる植民地支配およびベトナム戦争(アメリカ戦争)に伴う南北分断,そして日本によるアジア侵攻の事実も
少なからず近代史に刻まれている.とくに南部ベトナムの拠点でありベトナム経済の中心ともなっているホーチミン市(サイゴン)は,フランスコロニアルからアメリカ文化を経て,現在は日本を初めとする外資の集中する地域として特異な存在である.
ベトナム国内の民族は,キン族(ヴィエト族)と呼ばれるベトナム人が90%弱を占めており,その他にも50を越える少数民族を
含む.北方(現在の中国雲南省)に住んでいたタイ族や,現在のカンボディア王国を形成するクメール人などは,ベトナム人よりも社会条件的に不利な地域を中心に居住し,国境を越えた民族間の交流も根強い.また歴史的な背景から中華系の割合も高く,これは北部に限らず南部のメコンデルタ地域などにも当てはまる.サイゴンに併合されたチョロン地区(現在のホーチミン市6区付近)は中華街として今でも華人の割合が高い一帯になっている.
国外に目を移すと,メコン川上流のカンボディア,あるいはラオス国内にベトナム人コミュニティが見られる.難民や南北統一時に海外へ脱出した富裕層で,現在も国外に生活の拠点をおくベトナム人は“越僑(ヴィエッ・キィウ)”と呼ばれ,アメリカ西海岸のベトナム人街が有名である.日本在住のベトナム人に関しては,難民(ボートピープル)関連の数だけで8,000人規模.これに研修労働者や留学生などが加算され,外務省資料によれば1998年時点で1万3千人を越すベトナム人が国内で生活しており神奈川県や兵庫県に多い.
2. 国家概要
正式な国名を外務省の表記に従うと“ヴィエトナム社会主義共和国(Socialist Republic of Viet Nam)”であるが,MDVNでは一般的呼称(広辞苑等が採用する通常表記)の“ベトナム”を用いる.首都は北部に位置するハノイにおかれているが,最大の人口を抱え,経済的に最も発展しているのはホーチミン・シティ(現地呼称あるいは国際的旧称サイゴン)である.ベトナムの国家概要について,日本との比較を通して下表に整理した.なお各数値は2002年4月現在で収集したものであり若干の誤差を含む.
| 項目 | ベトナム | 日本 |
| 国旗 |
革命の血と人民の団結 |
太陽と神への信仰 |
| 政治体制 | 社会主義共和制 | 議会民主制 |
人口 (2001年1月) | 約7,768万人 | 約12,600万人 |
| 国土面積 | 331,688q2 | 377,864q2 |
| 言語 | ベトナム語 | 日本語 |
| 宗教 | 仏教(80%) カトリック カオダイ教 | 仏教(大部分) 神道 キリスト教 |
国土面積や宗教(宗教観も含む)など両国における類似点は多く,言語に関しても漢字起源のベトナム語と日本語には共有点がある.人口は日本に及ばないものの都市集中の傾向は同様である.政府による「二人っ子政策」により人口増加率は減少傾向へ向かうものの,今後,確実に両国の人口差は狭まってくると想定される.
3. 政治体制
党大会,国会,各レベルでの人民委員会そして大統領(主席),首相,書記長などベトナムの政治階層とポストは非常に複雑である.政策決定システムや相互関係について簡素化したイメージを下図に示す.非共産党員の国会議員も増加の傾向にあるが,べナムは社会主義の共産党一党独裁国家である.したがってベトナム政府と共産党を同一視するのも大きな誤りとは言えない.また実際の法や決定の手段および末端での施行に関しては非常に曖昧な部分も多く,海外からの投資が大きなリスクを抱える要因となっている.
中央政府から地方自治体に至るまでの下部組織については,上記のイメージよりもさらに細かい段階での委員会が機能して
おり,これに加えて中央省庁の地方事務所が省レベルから市のレベルにまで設けられている.
一般のベトナム人にとって最も身近な行政組織は,各地の人民委員会 (U?y ban nhân dân)で,日本の市役所にあたる
機能を兼ね備えている.ホーチミン市の観光スポットとしても有名な人民委員会は,コロニアル建築が美しいことで知られているが用事も無く外国人が中に入ることは許されていない.
中央政府に属する各省庁の一覧(2002年4月時点)と,確認できたリンクについて政府機関の一覧表を作成した.各省庁の呼称はリポート等において短縮形が良く使われるため,英語やベトナム語の資料を読む際には事前の知識として abbreviation を理解しておいた方が良い.
4. ベトナム共産党
社会主義共和制を政治体制とするベトナムは,事実上ベトナム共産党の一党体制で国家行政の舵取りを行っている.ベトナム共産党は植民支配に対する労働者層の民族独立運動に流れを汲み,具体的には1930年にホーチミン国家主席によって設立されている.これ以降,第2次世界大戦やベトナム戦争などを経て名称を変更したが,1976年の南北統一(ベトナム戦争終結)にともなって,現在のベトナム共産党として新たな歩みを始めた.
現在の党書記長は2001年に選出された初の少数民族出身者(ノン・ドゥック・マイン)であるが,それ以前はド・ムオイ,
そしてレ・カフューがその座を堅持していた.当初カフューの交代劇はスキャンダルであったが,古い禁欲主義的な社会主義者
であった人物が,経済的な解放推進という現実路線に排されたとも言われている.ドイモイ以降の大きな変革を遂げる国家は共産党そのものの変化にも通じている.
主要人物 (Government Officers)
国会/党大会 (National Assembly)
| 項目 | 解説 |
| 議会形態 | 一院制(数人の企業家を除いて大多数が共産党員) |
| 会期 | 5月と10月が標準で大凡一月程度開会される |
| 議員数 | 498名(任期5年)2002年選挙で450人から増員 |
| 選挙 | 中選挙区制 選挙権18歳/被選挙権21歳以上 2002年の投票率は全国平均98%以上 |
共産党略歴 (The History of Communist Party)
| 年代 |
イベント |
| 1858年〜 |
フランスの侵略開始と抗仏運動.そしてその失敗 |
| 1911年〜 |
Nguye Ai Quoc(ホーチミン)渡仏.フランス共産党への参加(1918年) |
| 1920年代 |
日本や中国の闘争運動のモデルに救いを求める愛国者による活動 |
| 1930年 |
前年マカオで設立したインドシナ共産党を経てベトナム共産党設立(第1回党大会) |
| 1939年 |
第二次世界大戦勃発 |
| 1940年 |
大日本帝国のファシストによる侵略とフランスの降伏.そして新たな敵国日本への抗争 |
| 1941年 |
約30年近い海外生活を経てホーチミンが祖国へ戻る |
| 1945年8月 |
日本敗戦.ベトナム各地での革命とベトナム独立同盟によるハノイ制圧(8月革命) |
| 1945年9月 |
ハノイの Ba Dinh スクェアーにおいてホー主席が独立宣言.ベトナム民主共和国の成立 |
| 1951年2月 |
第一次インドシナ戦争のさなかベトナム国内において第2回党大会 |
| 1954年10月 |
アメリカの支援を受けたベトナム共和国がサイゴンに成立.統一選挙の不履行 |
| 1955年7月 |
ディエンビエンフーの戦いによりフランス敗北.アメリカ(ベトナム)戦争へ |
| 1960年12月 |
南ベトナム解放戦線(ベトコン)が結成され南部ベトナムのアメリカ勢力への抵抗開始 |
| 1965年 |
米軍がホー主席率いる北ベトナムへの空爆開始 |
| 1968年 |
解放戦線によるテット(旧正月)攻勢によってアメリカ政府の方政策が揺らぐ |
| 1969年 |
祖国を憂いながらホーチミン国家主席死去 |
| 1973年 |
パリ協定によって南北ベトナム政府とアメリカ政府の調停.米軍撤退へ |
| 1975年3月 |
解放戦線の南進とサイゴン政権の弱体化 |
| 1975年4月30日 |
サイゴン政権の大統領が全面降伏しサイゴン陥落.ベトナム戦争の終結 |
| 1976年 |
全国選挙.第4回党大会により南北統一後の政府としてベトナム共産党が新しく樹立 |
| 1978年 |
ポルポト派撃退の為にプノンペン侵攻と親ベトナム政権の樹立 |
| 1979年 |
ポルポトを支援する中国がベトナムへ侵攻し中越戦争勃発 |
| 1986年 |
第6回党大会にて開放政策と市場経済を取り入れたドイモイ政策の採択 |
| 2002年5月 |
第11回党大会に向けての全国一斉選挙実施 |
5. ドイモイ政策
20世紀後半まで続いた戦争のおかげでベトナム国内の経済発展は著しく遅れをとった.これを巻き返すために全方位外交とともに
打ち出された経済開放と市場経済への転換を謳った方針が,いわゆるドイモイ政策である.ドイは“変える,変更する”,モイは
“新しい”を意味する言葉で日本語には「刷新」と訳される事が多い.
具体的には1986年12月の第6回党大会で採用された方針で,社会主義体制を維持しつつ改革開放路線を行くと明文化したものである.骨子となるのは,
(1) 工業優先政策
(2) 消費生産の拡大
(3) 外資を含む国際経済の受け入れと参画
で,主に経済面を全面に出した形になっている.これによって腐敗や競争性の無かった国営企業寡占状態の経済は活気を与え
られ,順調な経済成長が開始された.その一方で貧富の格差が増大し,アジア通貨危以降の外資撤退(ベトナム国内の
制度にも問題有り)が進むなど,現時点では必ずしも順調だとは言い難い面もある.
6. ベトナム経済
1980年代まで独立運動や隣国介入という戦乱の時期を過ごしてきたベトナムは,日本のような高度成長を遂げるタイミングを
逸している.そんな焦りの中で1986年12月に定められた“ドイモイ(刷新)”による開放政策が功を奏して,南部を中心とした
積極的な外資の誘致に成功し,都市部の経済的な発展が急速に進んでいる.現在も緩やかな成長を維持しているが,不安定な
投資環境と世界経済の失速,直接的な影響は回避できたといわれるベトナムではあるが,アジア通貨危機の発生からやや
減速気味となっている.それでも,下方修正はあるものの毎年の経済成長率は中国に追従する形で上昇している.またサイゴン
を中心とした急激な経済発展に対して,中北部山岳地やメコンデルタ奥地のような少数民族の居住区域では,インフラ整備と
社会制度整備の遅れが目立ち,貧富の格差という発展途上国に共通の問題を抱えている.
ベトナムの経済状況を相対的に位置づける指標として,過去30年間の国民一人当たりGDP(Gross Domestic Product)を用いた変遷図を作成した.
※GDP(国内総生産)
一国内で一年間に生産される最終生産物の総額で,国家単位の経済活動状況を比較するのに用いられる.
国民総生産(GNP)の場合,海外での経済活動や国内での外国人による海外送金などが考慮される為,国際化が
すすむ現状ではGDPが主流.
縦軸に国民一人当たりのGDP(アメリカ$換算)を刻み,国際通貨基金(IMF)の
“The World Economic Outlook”に基づくデータを描画している.
日本とベトナムを比較した上の図では,その差が桁違いに大きいため同軸表示ではベトナムの変遷がほとんど読みとれない.
一方,インドシナ周辺諸国との比較を行った下の図では,ベトナム戦争期後半の1970年代から低下傾向が続き,1990年代に入って
から緩やかな成長を続ける様子が示されている.成長著しいタイとは明らかな経済格差をつけられており,その他の貧困国とされる
国々と同じ様なレベルにある.1996年頃のタイの暴落は,アジア通貨危機の引き金となったタイバーツ大暴落の年に
相当している.金融資本市場の対外開放をしていなかったベトナムは,この危機によって直接的な影響を受けることはなかったが,
外国投資の減少に直面するに従い経済成長にかげりが見え始めている.
一方,GDPの総生産額(人口で割らない)で比較した場合,ベトナムはカンボジアやラオスなどの貧困国に対して10倍近い値を
示し,持てる者が持つという所得格差の増大を表している.
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